「心に因り気に因る者は未だしなり。
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『模倣』の意義
日経ビジネス人文庫より発刊されている『模倣の経営学』(井上竜彦著)を読んでおります。
井上氏の書籍は、『ブラックスワンの経営学 通説をくつがえした世界最優秀ケーススタディ』に続き2冊目になります。
さてこの『模倣の経営学』の主題は「トヨタもセブンイレブンもスターバックスも、優れた企業は「真似て、超える」ことで成功した」という内容を整理して発展させた内容です。
真似るという行為は、「猿真似」という言葉があるように、良い印象がありませんが大事なことです。
本著で初めて知ったのですが、世界の製造業に偉大な影響を与えているトヨタのジャスト・イン・タイムのシステム、生みの親の大野耐一氏はスーパーマーケットの仕組みを人づてに聞いたことから発展させたそうです。
真似るという行為は本当は素晴らしいです(ここでいう真似るとは陳腐なコピー商品や、版権・パテント等無視した盗作まがいのものではありません)。
「真似ぶ」は「学ぶ」と近い言葉だと以前聞いたことがあります。
アイザック・ニュートンは「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」という言葉を残しています。
『模倣の経営学』にもありますが、「守破離」という言葉もあります。
「守」とは師から教わった型を「守る」こと
「破」とは自分にあったより良い型を目指し、教わった型を「破る」こと
「離」とは自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、最終的には型からも自在に「離れ」進化すること
注目すべきなのはまず最初に「守」が来ることです。
ただ、「守」に入るためには、まず良い師を見つけないといけませんね。
では、そもそも良い「師」とは何でしょうか。そしてどうすれば見つかるのでしょうか。
これは、簡単な問いではなく私もまだ見つけていないので、今後進捗あればここに書こうと思います。
ただ、今言えることは「師」は探すと見つからない、今目の前にあることに真剣に取り組んでいく中で、ぼんやりと目の前に輪郭を持って現れる存在なのではないかということです。
簡単に言うと、「足元の地面を一生懸命掘り続けていたら、少しずつ地面の中から出て来た」といったところでしょうか。どこか探検して見つけに行くのではないです。
私は、幸いなことにこれまで超がつくほど一流の方ばかりを師という形で出会ってきました。
世界有数の海外の巨大企業でリーダー育成のエリートコースを切り抜けてきたような方から、アメリカに身一つで渡り一大事業を築き上げた方、独学でデータ解析から熱伝導・対流の制御に関する特許等を抑える等一人でやってしまうような方まで、普通に考えてどうしたら会えるのかわからないような方ばかりでした。
これらの方々、会いに行ったわけではなく、目の前の問題に真剣に取り組んでいるときに、突然思いがけぬ形で紹介があったり、就職した先のベンチャー企業の上司だったりという形でした。
出会いとは不思議なものです。私は、人との良縁は自分で探すのではなく、必死に手足をバタバタして浮き上がろうと努力している中で、いつの間にか指に引っかかっている糸のようなものと考えています。
『模倣の経営学』からだいぶ脱線してしまいましたが、この本を読んでいるうちにこのようなことを思いました。
井上氏の書籍、学術的な最新の情報等も盛り込んでいるため読み応え抜群で勉強になるのでお勧めです。
P.S.
『ブラックスワン』といえば映画がありましたね。私は、映画の内容を知らずに映画館に観に行き、この世の終わりぐらいに怖かったです。
人間心理を扱った映画の方が、単純なホラーより後味は最悪ですね(笑)。
社会性、芸術性は非常に高く素晴らしいのですが、個人的には苦手でした。
コアなファンはできそうな独特の映画でした。
橋本圭司
プライミング効果について
ある刺激を受けたとき、
- 被験者にかつて自分が犯したと感じることや行為を思い出してもら
う - 次に、半数の被験者に手を洗ってもらう
- その後に困っている大学院生のために、
無償で実験に参加するかどうか質問
- バラバラになった文字を文章に復元するという実験で、「老い」
を連想させる言葉を多く含む文章を復元したグループの方がそうで ないグループよりも、 廊下からエレベータまでの歩く速度が遅くなった。
一番ピンは何ですか?
突然ですが、
「アレクサンドロス大王のゴルディオンの結び目」にみる目的設定の大切さ
かつてゴルディオンという王都に
「これを結び目を解くことができたものこそ、このアジアの王になるであろう」と予言されたゴルディオンの結び目というものがあった。
これは荷車を結び付けたもので、これまで結び目を解こうと何人もの人たちが挑んだが、結び目は決して解けることがなかった。
数百年の後、この地を遠征中のマケドニア王アレクサンドロスが訪れた。彼もその結び目に挑んだが、やはりなかなか解くことができなかった。すると大王は剣を持ち出し、その結び目を一刀両断に断ち切ってしまい、結ばれた轅はいとも簡単に解かれてしまった。折しも天空には雷鳴がとどろき、驚いた人々を前に、大王の従者のアリスタンドロスは「たったいま我が大王がかの結び目を解いた。雷鳴はゼウス神の祝福の証である」と宣言した。後にアレクサンダロスは遠征先で次々と勝利し、予言通りにアジアの王となったという。
これは、アッリアノス著の『アレクサンドロス大王東征記』第2巻3節を一部省略、編集したものです。 このゴルディアスの結び目を切るという英語が、「難題を一刀両断にする」という例えに使われているそうで、この伝承はアレクサンドロス大王の果断で英雄的な側面を意味するものというのが一般的な解釈かと思います。
ここで、少し見方を変えて、仕事や日々の生活で役立つ(?)ようにこの伝承を解釈したいと思います。
そもそもなぜ、アレクサンドロス大王は他の人たちと異なった思い切った行動ができたのでしょうか。なぜ大勢の人は、結び目を切ってしまえという発想に至らなかったのでしょうか。
私が考えるに、アレクサンドロス大王は目的とそこに至る方法を、明確に区分する能力に秀でていたのではないでしょうか。
最優先の目的は「結び目でくっついている荷車を離すこと」です。
大勢の人は、結び目はほどくものという先入観が先行して、どうやってほどくかということが、いつの間にか最優先の目的になっていたのです。
アレクサンドロス大王は、その点を見誤らずに本来の目的を明確に意識していたために、ほどけないなら切断すれば良いというストレートな発想ができたのではないでしょうか。
なぜなら信託に、「ただし、刃物で切断してはならぬ」という条件なんて一切つけられていませんからね。
荷車を離すだけなら、何でもありです。 切らないで焼き切るとかいうのもありです。
なんだ、そんな簡単なこと誰でも思いつくとも感じられるかもしれませんが、企業でも個人でも目的達成のための手段が、いつの間にか目的になっていることがよくあります。
例えば、お店の集客効果を高めるための広告活動が、いつの間にか、「ビラを何枚配ったか」、「一日で何件電話をかけたか」が目標となって一人歩きしていたりします。
もちろん、このような努力は大切です。 しかし、一番大切な集客という本来の目的にその行動が役立っているかを常に意識して、チェックできる仕組みや体制を整える工夫をしてこそではないでしょうか。
そうしたら、集客が目的なので、既に顧客となっている方にお願いして、お客さんを連れてきてもらう方が自分の店にはより効果的等別のアイデアが出る余地が増えます。
そうやって、本当の目的に常に焦点を当てながら、取れる行動の選択肢を広げてこそ、アレクサンドロス大王のような飛躍が期待できるのではないでしょうか。
ちなみに、ゴルディアスの結び目をテーマにした芸術作品を調べたら、ベ サンスンという方の絵を見つけました。
ほどくのなんて無理そうです(笑)
実際はどのようなものだったのでしょうね。
橋本圭司