本多政重の生き方

関ヶ原合戦前後に、さほど有名ではありませんが興味深い人物があります。

その人物とは、本多政重。

徳川家康の参謀である本多正信の次男として誕生し、12歳で家康の家臣倉橋長右衛門に養子なるも、2代将軍秀忠の乳母の子を喧嘩で斬り殺してしまいます。
結果、罰を受ける前に出奔することになりました。
その後
大谷吉継
宇喜多秀家
福島正則
前田利長(1回目)
上杉景勝
前田利長(2回目)
と、その生涯でなんと有力武将ばかり7回も主替えをしています。

彼が宇喜多秀家に仕えていた時には2万石という高禄をもらっていました。
この時の宇喜多家はお家騒動で半分裂状態のまま、関ヶ原合戦に西軍として参加するはめになります。
ここで宇喜多軍を支えた武将の1人が政重でした。
敵は実父が仕える家康軍でしたが、彼の活躍はすさまじく「あれは何者ぞ」と家康に言わしめた程でした。
結局西軍は負けてしまうのですが、政重はその後前田利長に仕官することに成功します。

しかし、旧主である秀家が家康の処分をうけることになり、死罪は確実と考えた政重は秀家に殉じようと前田家を飛び出しました。
このことから、決して薄情な人物ではないことがわかります。

ところが政重の予想に反し、秀家は八丈島流罪で生きながらえることになり、昇った梯子を外された状態となり居場所がなくなった彼は、そのまま前田家に戻らず上杉家に仕えることになります。
そこではなんと上杉家の参謀ある直江兼次の婿養子となり、上杉家を支える人物として期待されることになります。
ところが、当主上杉景勝に嫡男が生まれると、またしても政重の居場所が少なくなってしまいました。

結局最後に選んだ仕官先は、以前飛び出した前田家。
政重に期待された役割は、家康の参謀である父などの、彼の持つ強力なネットワークを使っての徳川家と前田家の緊張緩和。
彼は自分に期待されていた役割を十分に果たしたようで、両家の関係は良好になりました。

その後も、大阪の陣の時では前田家先陣として、NHK大河『真田丸』でおなじみの真田幸村軍と闘い、大敗するという事も経験しています。(一説では徳川軍代表として真田幸村の調略を試みたと言われている)
そして彼は、前田家家老になるまでに本多家を繁栄させた後の1647年に亡くなります。(享年68歳)

私はこの本多政重に魅力を感じます。
彼は、主家を何度も変えているところから、あまり良人気がでる人物ではないかもしれませんね。
同じような人物として、藤堂高虎という人物がいます。

しかし、かつて奉公した宇喜多秀家に殉じようとしたり、2回目の前田家奉公時代でもわかるように、自分の期待されている役割を理解し成果を挙げ、また、過去に世話になった人のために筋を通したりという真摯な面を持っていたように思えます。

自身の理念・哲学に基づいた、自由でいて、それでいてしっかりとした役割をこなし続ける人生。
本多政重の魅力は、こうした生き方を感じさせられる点にあるように思えます。

彼が死後に得た法名は「大夢道中」。
彼は人生という旅路においてどのような夢を追いかけていたのでしょうか。

(橋本圭司)