陸軍中野学校OBの I氏を訪ねて

第二次世界大戦前、「日米諒解案」が作成され 開戦回避まで あと一歩でしたことは、歴史の教科書には 載っていません。

そして その諒解案を まとめ上げましたのが、岩畔豪雄・元陸軍大佐であることも ごく一部の人しか ご存知ありません。

この諒解案は 結局、当時 ドイツを訪問し ヒトラーと固い握手を交わしていました 松岡外務大臣に 一蹴され、その後 日本は 開戦へと突き進んでしまいました。

けれども 戦後は、様々な人の思惑などから、その諒解案は 無意味であったものとされ、また 「外務省は 軍の暴走を止めるために 賢明に努力したが 力及ばなかった」 という 「歴史」が 確定してしまいました。

岩畔氏は 戦後も長く生きていらっしゃいましたが、その件に関し ご子息にも ほとんど何も語られないまま 他界されました。

ただ、東京裁判で イギリス等が 岩畔氏の死刑を求めました時、アメリカが 何故か 断固拒否をしたのだそうです。 

この岩畔氏は、主人の父方祖母の従兄にあたります。子供の頃から そうしたお話しを 周囲から聞いて育ちました主人は、いつか この事を 世に問いたいと考えていましたようですが、1999年に ようやく出版に至ることができました。

その前 数年かけての資料集めは、今のようにインターネットが 充分普及していませんでしたし、Googleも アマゾンもありませんでしたので、全国の古書店や図書館に ずいぶん足を運びました。

出版後 1年程の間に、岩畔氏の直接の部下であったという方や お父様が軍医として 岩畔氏と共に 戦地へ赴いていたという方、また政治家の方々等から ご連絡や 新たな資料・情報などをいただきましたが、諸事情から 増刷はできませんままで だんだん収束していきました。

出版後 8年も経ちましたので、最初に 「直接の部下だった」とご連絡くださいました方も ご高齢でお亡くなりになり、もう新たな読者は無いでしょうと 思っていましたところ、先日 京都大学のH教授から 主人にお電話をいただきました。

H教授と主人は 全く面識はありませんが、調べてご連絡くださいましたようです。

H教授が 大変お世話になっていらっしゃる方が、主人の本を読み、「君なら連絡がとれるのではないか」と 依頼されたのだそうです。

そして、お目にかかり 貴重な資料をお貸しくださいましたのが、陸軍中野学校OBの I氏です。

中野学校は 当時の軍事密偵(スパイ)養成学校で 岩畔氏が 立ち上げに関わっていましたそうです。1974年に、フィリピン・ルバング島で 戦後29年目に発見されました 小野田少尉が 中野学校出身者でしたことで、世に知られるようになりました。(中野学校では、たとえどんな目に遭っても けして自害などせず、何としても生き延びて任務を果たすよう 教わったそうです。)

I氏は 亀岡にお住まいですので、資料の返却には 私も一緒に伺いました。

Photo_29
Photo_30
駅から 車でわずか10分余りといいますのに、高台の木々の中に佇むお宅は、全く 静寂に包まれ、車の音さえ聞こえませんのに 驚きます。そして、私の大好きな 小津安二郎監督の 映画の中のような 郷愁を感じさせますインテリア!(右の写真などは、゛東京物語゛のラストシーンで 笠智衆が 背中を丸めて座っていました部屋を 彷彿とさせます。)

一方、笠智衆の老人ぶりとは対極の I氏は、84歳という年齢を感じさせない 軽やかな身のこなしと 明晰な頭脳、淀むことなく 次々に 様々なお話しを聞かせてくださいました。

Photo_23
Photo_24

車がお好きで、今でも時々 鈴鹿サーキットで走っていらっしゃるとのことで、これは その雄姿です。さすが 中野学校OB!

丁度 お昼時になりましたので、奥様の手料理を出してくださいましたが、この写真の お料理は、「おじいちゃんの焼き鳥」と呼ばれて お孫さん方も大好物のもので、I氏が 子供さんの小さい頃から 「安くタンパク質を採るため」よく作られたとのこと。Photo_26
何でもなさるのですね・・・。200坪の家庭菜園で作っていらっしゃる サラダ菜や玉葱、パセリ、生姜と一緒にいただくと とても美味! そして健康的! 

あ、本題に戻ります。

この度もまた、貴重な資料を お預かりしました。

これは、大戦中 ニューギニアに赴いていました 中野学校出身者が、現地での出来事を 細かく記録していました日記です。

現地の人々との交流も書かれています。Photo_27
Photo_28
たとえば、ある地点へ向かいます時、部隊は コンパスで方角をみますが、現地の人達は 空を眺め 風を感じ 地面の臭いを嗅いで 「こちらだ」と言われ、信じてついて行くと、コンパス通りに行くより はるかに近道であったとか ・・・ 。当時(1940年代)の 現地の人々には 現代人が無くしてしまった 特殊な能力が備わっていたのでしょう、とのお話しでした。

また ほとんど表には出ませんが、終戦前から 戦後にかけ、多くの 中野学校出身者が インドやインドネシア、ミャンマーの独立運動を助け、指導し、成功させたのだそうです。

歴史には、どの国でも 大なり小なり まだまだ 教科書にも専門書にも ほとんど載せられていない事実が きっと たくさんあるのでしょうね。

帰宅後、クリント・イーストウッド監督の 「硫黄島からの手紙」 のDVDを観ました。切なくて 何ともいえない気持ちになりました ・・・ 。